「人の作り出した困難は、人の力で打開できぬ事は
ない」
息子が読み始めた今回の歴史本は、「島津義弘」
(徳永真一郎著)。
ない」
息子が読み始めた今回の歴史本は、「島津義弘」
(徳永真一郎著)。
1600年9月15日、徳川家康の東軍が石田三成
の西軍を破った関ヶ原の戦いは、両軍総勢で
20万が参加。
その中に薩摩から島津義弘が1千人の軍勢で、
西軍に参加していました。
生涯合戦に臨むこと52度。
義弘の勇猛さは有名で、「鬼島津」と恐れられて
いました。状況判断力に優れていたといわれ、
人柄は実直。
開戦から3時間、西軍は敗走し始めます。
それまで戦場から動かずじっと戦況を見つめて
いた、義弘は「猛勢の中へ相掛けよ」と命令し、
敵である東軍の一番厚いところへ目がけて、突撃。
その勢いは凄まじいもので、近くにいた福島正則
の軍は手出しが出来ないほどでした。
家康本陣の目の前を突破した義弘たちですが、
これを見逃すわけにはいかないと、徳川四天王の
井伊直政と本多忠勝が追撃。
島津軍は、数人が盾となっては、義弘たち味方を
逃がしました。
「捨て奸(かまり)」と呼ばれる、捨て身の戦法。
自分が生きて帰れる望みは全くありません。
味方を生かすための必死で捨て身の戦法。
次々に盾となり、殿(しんがり)の兵は次々に
死んでいき、逃げ延びて帰郷できたのはわずかに
数十名。
義弘は、最初からこの戦術を考えていたわけでは
ありませんでした。
関ヶ原で敵だけが残る戦場に孤立してしまった
義弘は、最初自刃しようとします。
それを甥の豊久に説得され、故郷に戻ることを
決心し、捨て身の退却を覚悟します。
そして関ヶ原終戦の後、家康は数万の軍勢で、
島津の本拠薩摩を攻めます。
ここで、義弘の兄である、当主の義久が立ち
上がります。(実はこのために、関ヶ原に島津の
主力を送らず、兵を温存していたともいわれています)
薩摩の城の守りは固く、両軍睨み合いがしばらく
続きます。交渉で決着を図ろうとする家康に対し、
義久はのらりくらりと上手くかわします。
この頃、薩摩沖で明国の貿易船二艘が略奪に
あうという事件が発生しました。
実はこれは島津家によるもので、デモンストレーション。
これにより、家康は根負けしてこう言います。
「私と義久は親しいので、私に刃向かった義弘
はお咎めなしとしよう。さらに薩摩、大隈など元の
領地も安堵とする」
島津家は700年間、同じ土地を治め続けました。
「島津家に暗君なし」の言葉は有名です。
島津四兄弟は島津家14代当主、中興の祖、
島津忠良の孫たち。
祖父は兄弟の個性を見抜くと、
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、
義弘は雄武英略を以て傑出し、
歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、
家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評しました。
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