「五月雨の降り残してや光堂」
しとしとと静かに降るこまかな雨を眺める中で、
ふと芭蕉の句が頭に。
数年前に初めて訪れた、平泉中尊寺金色堂
の見事な姿。
しとしとと静かに降るこまかな雨を眺める中で、
ふと芭蕉の句が頭に。
数年前に初めて訪れた、平泉中尊寺金色堂
の見事な姿。
この句の初案は、「五月雨や年々降りて五百たび」
であったと聞きます。
五百年の長い歳月を経て、芭蕉が目にした
高館の廃墟の様。
対照的に、時を経ても変わらぬ金色堂の
まばゆい姿。
この地に極楽浄土を築こうとした奥州藤原氏の
願いが感じられました。
中尊寺金色堂をはじめとする寺院建築を見ると、
かつてここで国内外の多くの人や物が往来し、
人と文化が交流し合う、まるで都のような繁栄
の痕跡を目にすることができます。
『炎立つ』(高橋克彦著)で描かれた、
兵どもが夢の跡に足を踏み入れ、この地に
生きた人々の生涯を思い浮かべたことがあります。
今からおよそ900年前の平安時代後期、奥州
藤原氏のもとで花開いた「平泉文化」。
11世紀末、奥州藤原氏の初代となる清衡は、
この地に本拠を構えました。
幼いころから幾度の戦乱をくぐり抜け、肉親
同士の戦いや妻や子までも殺されるという
数奇で凄惨な運命をたどった清衡。
彼は、命の尊さを実感し、戦争の無い平和な
社会、極楽浄土の世界をそのまま形にした
理想の仏教都市建設に力を注ぎます。
基衡、秀衡、泰衡の時代へと受け継がれ、
約100年間京の文化の影響を受けながらも、
広い地域との交易を背景に独自の文化と
して発展します。
現世に仏国土を造ることを理想とした奥州
藤原氏の願い。
いくつもの寺院仏閣を建てることで、都市を
浄化させ、周囲の山々や川などを借景として
利用することにより、徐々に目指す姿へ
近づいていきました。
奥州は京から遠く離れた地でありながら、
良質で豊富な砂金、そして絹、漆、馬などが
産出されたほか、水・陸ともに交通の要衝として
交易が盛んに行われ、経済、文化ともに大きな
発展を遂げます。
100年にわたり、奥州藤原氏が繁栄と発展を
遂げた平泉文化は、ついに四代泰衡の時代に
その幕を閉じます。
奥州藤原氏の力を恐れた頼朝は、義経を匿った
ことを大義名分に平泉へ大軍を送り、栄華を
極めた奥州藤原氏を滅亡させました。
実景と往時の様への感慨を、芭蕉は冒頭の句
に遺しました。
”年々降り続いて、すべての物を朽ちさせてきた
五月雨も、この光堂だけは降り残したのだろうか。
その名のように、数百年を経た今も光り輝いて
いるのだ”
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