FIFAワールドカップ・ブラジル大会は、ドイツが24年ぶり4回目
の優勝を果たしました。
延長の末にアルゼンチンを1-0で下し、西ドイツ時代の1990年
イタリア大会以来、24年ぶり4度目の優勝。
欧州勢の世界一は3大会連続で、5度目となる南米開催の大会
では初めて頂点に立ったもの。
の優勝を果たしました。
延長の末にアルゼンチンを1-0で下し、西ドイツ時代の1990年
イタリア大会以来、24年ぶり4度目の優勝。
欧州勢の世界一は3大会連続で、5度目となる南米開催の大会
では初めて頂点に立ったもの。
今大会、ドイツの強みは常に動きながらパス回しで
崩せる、という自らの特徴に加え、相手に応じて
様々な戦い方ができる、選択肢の多さにあった
ようです。
たとえば決勝戦で、中央を使ったショートパスでの
崩しを試みたかと思えば、相手が布陣を変えると
サイドを突き、簡単にサイドだけではダメだと
わかるとサイドチェンジを交えてドリブルを使う。
それは選手一人一人に徹底されているもので、
相手が前から守ろうとすれば裏を狙う動きをし、
引いて守るならば、位置を次々と他の選手と交換
して相手の陣形を乱そうとするもの。
「自分たちのサッカー」がたった1枚のカードに
頼っているのではなく、何枚ものカードからなる、
その多彩さは素晴らしいものでした。
この日の決勝の先発メンバーのうち、クローゼは
ポーランドからの移民で、エジルはトルコ、
ボアテングはガーナにルーツがあります。
ケガで直前に先発から外れたケディラはチュニジア系。
エジルとボアテングは今大会で全7試合に先発し、
チームの主軸を担い、大会を支えました。
1990年代以前のドイツ代表チームは、ほとんど白人
選手。
ところが、2000年頃を境に多民族チームへと変貌を
遂げ、気づけば国際色豊かな多民族チームへと
変貌していました。
1970~90年代には最強を誇ったドイツ代表は、2000年
のUEFA欧州選手権でどん底を迎えます。
グループリーグでポルトガルに0-3、イングランドにも0-1
で敗れるなど1分2敗に終わり、敗退。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツは統一
されたものの、サッカーのドイツ代表は純血主義に
とらわれたままでした。
旧西ドイツは1960年代以降、トルコ、ギリシャなどから
出稼ぎ労働者を受け入れてきました。
いずれは母国に帰国すると考えていた出稼ぎ労働者
はそのままドイツに残ります。
このため、99年、同国政府は移民対策として、厳格な
血統主義を守ってきた国籍法を緩和して出生地主義
を導入。
フランスやイギリスといった欧州の移民先進国に
さまざまな点で遅れをとっていたドイツは、20世紀
の終わりとともに、両国に肩を並べるべく政治的、
社会的な変革を進めました。
ドイツ語で「マルチカルチャー」のことを「ムルティ・
クルティ」といい、この「ムルティ・クルティ」化は、
99年の「国籍法改正」、06年の「一般平等待遇法」
(「反差別法」)という二つの重要な法の制定で
劇的に進みました。
すでに国民の多くで共有されていた、東西ドイツ統合
後の「新しいドイツ」の理念がこの2つの法律により、
より明確かつ強固なものとなったのです。
言葉と価値観を共有さえすれば、宗教や人種は
関係ない、というのが現在のドイツの根本をなす理念。
ドイツのメルケル首相は、ブラジルまで応援に
駆け付け、「サッカーのドイツ代表チームは私たち
の国のロールモデル。選手が国のヒーローとして
祝福されることは素晴らしいこと」と絶賛しています。
ドイツはいまや英国やフランスと肩を並べるほどの
多民族国家へと様変わりしました。
98年W杯フランス大会までドイツ代表は純血チーム
でしたが、次の2002年日本・韓国大会から移民背景
を持つ「M(多文化主義)世代」が徐々に増え始めます。
決勝点を挙げたゲッツェを生み出したドイツ1部ドルト
ムントの育成組織は15%以上がトルコ系やアフリカ
系などの移民の子どもたち。
多くの移民やその子どもたちが、代表選手に名を
連ねるようになった背景には、2000年以降の選手
育成の改革があるといいます。
改革の一環で、各クラブは移民の子どもたちを
積極的に受け入れるようになりました。
ワールドカップ優勝を決めた決勝点は、普段重心を
おいている右のパスからでなく、左サイドのドリブル
から交代選手のシュールレがクロスを挙げ、
同じく交代選手のゲッツェが決める、
まさに「選択肢の多さ」から生まれたもの。
この「選択肢の多さ」を支える、様々な国の遺伝子
を有する選手たちによる「多様性」の力の素晴しさ
を感じさせられた大会でした。
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