『厭離穢土欣求浄土の決意』

滝田栄さんをゲストに「神渡良平人間学」第22回
(主催:照隅会)を開催しました。

【 人を動かす力 】
の題で、様々なご体験に基づく
お話を頂きました。


大河ドラマ「徳川家康」
を演じるにあたって、役創り
が遅々として進まない中、家康のキャラクターに
ついての手掛かりが、何一つ掴めずに
いたといいます。

”一本の植物の、一つの花にでも葉にでも枝にでも
触れることができれば、そこから幹を辿り必ず
その命を養い支える根まで辿り着ける。

その根っこが解れば、その植物の命を動かしている
力の質が理解できる。

ところが家康という人間は、むすっとして口もきかず、
勇ましく立ち振る舞うこともなく、激することもなく、
じっとして動かず、その人物の葉にも枝にも幹にも
触れさせもせず見せてもくれないのだ。” 
(「滝田栄 仏像を彫る」より)

大河ドラマ始まって以来初めての失踪者にでも
なるのだろうかと思うほど追いつめられた心境に
なったといいます。 

当時、役創りのために過ごしていた、
家康が幼少時から今川家に人質として
とられ過ごしていた禅寺に滝田さんはいました。 


その悩む姿を見抜いたのでしょう、
お寺のご隠居「たまには息抜きにお茶にでも
いらっしゃぃませんか」
と声をかけてくれたそうです。

その時に頂いた煎茶の一滴の味わいの大きさに
驚いたといいます。

僅かな、美しい黄緑の水滴を、押しいただいて
頂戴すると、驚くほどの甘み旨みが口の中
いっぱいに広がったそうです。

そして一杯目とは異なる、二杯目、三杯目の味わい

”一杯目は甘いから甘、二杯目は渋いから渋、 
三杯目は苦いから苦と言う。 

つまり、甘渋苦、三つの味がそろって、人生の味わい
と言うのだが” と老師は笑われた。
 

家康の人生
を俯瞰した時、甘などというものは
ほとんどなく、渋と苦の連続でした。 

人生の大半が常人には耐えがたい苦渋に満ちた
忍耐の連続
















滝田さんはそれまで、大河の主役ということで、
何が何でも格好良くやってやれと、考えていたそう
です。

無様なほどに耐える不格好

これが家康にしか咲かなかった忍苦堪忍の花

このお茶の味わいの深さから、人生の苦しみや
悲しみの中にこそドラマがある
ことを
滝田さんは思い出しました。

その後に見せられた「涅槃図」の解説を聞かされた
ことで、戦国という悲劇の時代を、遂に終わらせた
巨人の命を導き動かした根本力
が分かったといいます。

”三方ケ原の戦いで信玄に、致命的な大敗を
喫した時、再び家康を立ち上がらせたのは、
浄土教の教えであり祈りでもある、
「厭離穢土欣求浄土」という言葉でした。

穢れた世を忌み嫌い浄土をこいねがうという
意味ですが、家康は、生きてこの世を浄土に
してみせるという自分の決意を言葉にしました。

これを戦の目印、旗指物として掲げ再起します。”
 


そして艱難辛苦の末に、家康は一国で戦争が
なかった期間として世界記録である、徳川265
年の太平の世
を築きました。

一年間のドラマを演じ終えて、家康という人間の
凄さ偉大さを改めて知ったという滝田さん


その偉人の魂を動かした「仏陀」「仏陀の知恵」
「仏陀の教えそのもの」
に強く興味を持たれた
そうです。

少年時代、父と母が祖先を敬い合掌する姿
見て、静かな美しさと安心を感じ、現在は自分
の番としているといいます。

自分の身命を惜しまずに、動くこともままならない
中で、成田山のお不動さんに行き、息子が無事
二十歳の青春を迎えることができたことを祝福
してくれたお母様の祈りに接した喜び



性格的に最も真剣になり得る仕事
を通して、
「私とは何か」という問いと、自分自身の本性
を変えるほどの人生のテーマと巡り合えた、
それが滝田さんの仏縁
だそうです。

滝田さんが彫られる仏像


託された思いを感じ、深い体験を通して、
あるものは優しく、あるものは力強く、ご自身
の心を形に
されていることがよく分かりました。

そして現在の社会もまた穢土である中で、これを
浄土としていくのは、私たち一人一人の照隅の
行い
によるものであると強く思います。





















”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”