春秋戦国時代は、中国史において、
紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移して
から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの
時代をいいます。
一般によく知られる「三国志」の時代(184年~
280年)よりもはるかに古く、そして長い時代。
ヨーロッパ史でいえば、イタリア半島中部で王政都市
ローマが建設されたという伝承の頃から、半島を統一
してしばらく後に、カルタゴから最初の属州シチリアを
獲得した共和政ローマが、再びカルタゴと干戈を
交えるまでの500余年間(紀元前753年~紀元
前218年)がだいたい同時代。
この時代の特徴は主に以下が挙げられます。
・群雄が割拠し、周王の低迷と共に諸侯連合(
会盟)のトップが覇者として台頭(春秋五覇が
有名)
・下剋上の気風で小国が乱立
・戦国時代には名目上の権威すら失った周王に
代わり、王を僭称する大諸侯が現れる(戦国
七雄が有名)
・大国が小国を次々と滅ぼしていった
・周王室が滅び、七雄の一つ「秦」国が他を制して
中国全土を統一
・孔子などの諸子百家が出現
「十八史略」は、中国の太古より宋代までの簡略な
史書。
私は高校時代に、陳舜臣著 「小説十八史略」
(講談社文庫(全6巻))を繰り返し読んでいました。
”夏に先だつ幾千年、中国中原に君臨した神々。
時代は下り、やがて殷へ。
暴君紂王を倒して次なる世界を開いたのは
周だった。
その周を大動乱をへて秦に統一される。
―英雄は激動の時代に生まれる。
大陸も狭しと潤歩したあまたの梟雄豪傑たち、
そして美姫。
その確執葛藤の織りなす人間模様を活写。”
「十八史略」の中には、今でも使われている言葉
の原型がいくつもちりばめられています。
例えば、「刺客」という言葉。
7つの国に分かれていた春秋戦国時代、
そのうちの一つであった燕の国の太子丹。
彼は荊軻という男を使い、秦の始皇帝の暗殺
を命じます。
「秦へ行けばおそらく生きては帰れないであろう。
これが荊軻を見る最後かと思うと高漸離は
暗然と涙ぐみ、密かに涙を拭いかつ筑を
かき鳴らして友を送った。
荊軻は進みながら歌った。
風蕭蕭として易水寒し、 壮士ひとたび去って
また還らず。
その声は人々の肺腑をえぐった。
人々は皆、眼を怒らして秦の方を睨み、
髪逆立って冠を突くばかりであった。
すでにして荊軻は去り、ついに振り向く
こともなくその姿は遠くなっていった。」
中国史に残る5人の刺客の筆頭に上げられる
のが、この荊軻。
さて父から薦められた「十八史略」を読む息子
の姿を見ながら、かつて安岡正篤先生が
おっしゃった言葉を思い出しました。
「思想が歴史をつくり、歴史が思想をつくる。
歴史はどんなに古いことでも常に現実に即する。
歴史は過去のことだから今日通用しないと
思ったら大間違いだ。
そこに歴史の意義があり生命がある。
歴史を学びなさい。」
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