『天下は天下の天下なり』

「四角な器にも円い器にも、水は
器に応じてはいる。
自ら活動して他を動かすは水なり。
障害に遭いて激し、その勢力を百倍
にするは水なり。
常に己れの進路を求めてやまざるは
水なり。」
(黒田如水の言葉)









 

「天下はそれを治めるに相応しい
ものが治めるのがよい

されど天下は一人の天下にあらず
天下は天下の天下なり

わしが死んでも争いの起こらぬ
太平の世をつくる
それがわしの望みじゃ」

ビジョンと人望と能力
これを持つ人間に、人はついていく
もの。

少年時代に今川や織田の間で人質
たらい回しにされ、若かりし頃には
家臣の一向一揆参加、城主となって
からは信長の命令で息子信康を失う
など、戦国乱世の悲哀を知り抜いた
家康
による本心からの言葉。

全脳タイプである家康の、まさしく
「我」を
大きく超えた「公」による
大望の言葉
を聞き、左脳三次元で
本質を追求
した如水は自分の敗北を
認め
ます。 
その後、徳川家康は征夷大将軍
なり、江戸に幕府を開きます。


晩年の如水は茶に親しみ、和歌、
連歌など風雅の世界に浸った

いいます。

52万石の福岡藩初代藩主になった
息子長政が福岡城の普請を行う間、
太宰府天満宮の一隅に住んで、
戦火に荒廃した社殿の復興に尽力

感謝した天満宮は、江戸末期まで
正月、5、9月の20日(如水の
月命日)に如水懐旧の連歌会

開きました。

如水の政治理念、それは
「神の罰より主君の罰おそるへし
主君の罰より臣下百姓の罰おそる
へし」
というものでした。

(神や主君は祈り謝れば許され
ようが、怖いのは部下や万民(
国民)の罰だ。彼らの信をなく
しては必ず国を失う)
如水は、子供の教育も重要視し、
その精神は、大正4年創立の
(財)黒田奨学会に受け継がれ
約千人の奨学生が巣立ち社会に
貢献
しています。
慶長9(1604)年3月
20日
、京都藩邸にて如水は
永眠
。享年59。
辞世
「思ひおくことのはなくて
つゐにゆく みちはまよはじ
あるにまかせて」 



”人と自然を調和しながら『持続可能な未来』を共創する”