「江戸期まで日本には、個人という概念がなかった」と論じる、
橋本治さんの「浄瑠璃を読もう」が大変興味深い内容。
”つまり江戸時代では「独自」ということが許されなかったので、
何か新しいことを主張しようと思ったら、それが既定の考えに一致している
ことをことをしめさなければいけなかった。
それが「道理」にかなっているということなのである。”
(義経千本桜)
橋本さんによれば、日本人はいまだに「論理的に正しいか?」よりも、
「道理にかなっているか?」ということを重視する傾向がある。
江戸時代、武家階級は謡曲を、町人階級は浄瑠璃を素養として嗜んだといいます。単なる娯楽とか教養ということではなく、生活のための必須事項であったのだそう。
「浄瑠璃」というのはもともと仏教由来の言葉であり、人形と結びつく以前の
語りがあれば、そこにリズムが生じ、あるいは歌が生まれてくる。
もしそこにメロディーが生まれてくれば、まず音楽は語りの側にあって
「道理にかなっているか?」ということにとらわれている。
浄瑠璃はまず語るものでした。
伴奏のほうにはないことに。語る人間の声が最大の楽器となる。
「語る」がどのようにして「音楽」になりうるのか? それは「祈りの声」
としてであるといいます。
お経はメロディラインをもっていますね。そこから説教節も生まれます。
しかし、説教の繰り返しは人々からは飽きられるもの。
そこで「悲惨に見舞われる主人公のドラマ」と「その主人公は実は神や仏の
しかし、説教の繰り返しは人々からは飽きられるもの。
そこで「悲惨に見舞われる主人公のドラマ」と「その主人公は実は神や仏の
別のかたちなのである」とする「本地」の形式をとる工夫された表現が生み
出されてきたそうです。なるほど同じことを言うのでも、「何を言うのか」という論理より、
「誰が言うのか」という人物を優先して物事を聞く風潮が、日本人の多くに
あることの歴史的背景が何やらわかってきたような。
浄瑠璃に限らず、歌舞伎や文楽、雅楽、声明、など数多くある
日本の古典芸能から、様々に学べることが多くあるものと
深く興味を持ちました。
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