「ふだん何を食べているのか言ってごらんなさい、
そしてあなたがどんな人だか言ってみせましょう」
18世紀末のフランス政治家であったジャン・アンテルム・
ブリア=サヴァランの言葉です。
そしてあなたがどんな人だか言ってみせましょう」
18世紀末のフランス政治家であったジャン・アンテルム・
ブリア=サヴァランの言葉です。
上記の言葉は、彼の書いた「美味礼讃」(主として
美食学や食道楽に関する著作)に載っており、他に
「新しい星を発見するよりも新しい料理を発見するほう
が人間を幸せにするものだ」などの名言も見られます。
さて、冒頭の名言は、放送作家・高橋秀樹氏が
「主婦なら誰でも知っている情報を得意げに紹介する
テレビ番組がなぜ存在するのか?」にて紹介していた
もの。
読んでみると、現代日本のマスコミ風潮からさもありなん
と思える問題提起でした。
”ドラマでもそうだが、主婦向けの情報番組をつくって
いる制作者もスーパーに行っていない。
モノの値段に敏感であるべき報道の人もスーパーに
行っていない。
だから、主婦や主夫なら誰でも知っている情報を得意
げに新情報だと紹介してしまうのだろう。主婦や主夫
に情報感度で超されているのは情けないことだ。”
そして、演出家・鴨下信一氏が『食べるドラマ論』で
「社会派ドラマでも、SFでもホラーでもドラマのリアリ
ティを支えるのは太顔を見せるホームドラマ的シーンだ。
そこにある食事のシーンはドラマ全体の再生に繋がる」
と言っていることを引用。
”ドラマ中での食事シーンが減ったのは、テレビからホー
ムドラマがなくなったからであろうと筆者は考えている。
しかしながら、ホームドラマがなくなって医者と刑事
ばかりのドラマになったとしても、役を演じている人物
はどこかで何かを食べているはずだ。
話の展開を早くするためとはいえ、それ(=食べている
場面)を省くのは果たして正しいのか。”
高橋さんはかつて、脚本家の向田邦子さんから叱られた
ことがあるといいます。
「食事の量を表現するのは食器の大きさだ。分かって
いたからとび職一家の食事シーンで大ぶりの飯茶碗を
用意した。
すると脚本家の向田邦子さんに叱られた。
飯茶碗ではない、漬け物を盛る丼が小さすぎる。
大きな丼に山盛りの漬け物、しかも2つ」
向田さんのエッセー「ねずみ花火」にこうあります。
「ウェイトレスや看護婦さんや、ユニフォームを着て働く人
を見るたびに、この下には、一人一人、どんなドラマを
抱えているかも知れないのだ、十把ひとからげに見ては
いけない、と自分にいいきかせている。」
向田さんの親友であった黒柳徹子さんはこう話して
います。
「一番最初に向田さんと会って、すぐ話した会話が
『人生あざなえる縄のごとし』。
これどういう意味なの、って聞いたのね。
人生は、幸せという縄と、不幸せという縄と2本でね
、編んであるようなものなのよ、って。
幸せと不幸せとは、交互でやってくるもの。
そういうものが人生というもの。
ああ本当だな、って思って。
本当に、向田さん『あざなえる縄のごとし』って言った
けど、いいこと、悪いこと、本当に交互に来るなって
思って。」
光が当たるところにある陰。
かげりというものがある。
そのかげりを見事に描写した向田作品。
映画監督の是枝裕和さんは向田さんの魅力をこう
語ります。
「ひとつではないという価値観が、本当はすごく大事だ
と思っていて、実は価値観を異にしながらも、つながって
いくことが必要。
彼女が描いた、家族が一番面倒くさくて、やっかいで、
隠し事が言えない相手であり、でも一緒に暮らしている
という描写の方が、逆にほっとする。
そういうところに惹かれる。」
向田さんのエッセー「子供たちの夜」に、かつての時代
を懐かしく思い出し、感傷的な気持ちになります。
「忘れられないのは、鉛筆をけずる音である。
夜更けにご不浄に起きて廊下に出ると耳馴れた音が
する。
茶の間をのぞくと、母が食卓の上に私と弟の筆箱を
ならべて、鉛筆をけずっているのである。
私達はみな母のけずった鉛筆がすきだった。
けずり口がなめらかで、書きよかった。
母は子供が小学校を出るまで一日も欠かさずけずって
くれていた。」
参考:「33年目の向田邦子 なぜ惹かれるのか」
「主婦なら誰でも知っている情報を得意げに紹介する
テレビ番組がなぜ存在するのか?」
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